西城秀樹さんに教えてもらった大切なこと
自分は物書きじゃないから、文章は下手くそだけど、今日は約1年ぶりに書く気持ちになった
ただ、本当に1年て早いなぁ〜と感じながら…
書く気持ちになったのは先日の西城秀樹さんの訃報
今日、5/26が西城秀樹さんの告別式、くしくも私の55歳の誕生日
亡くなったのを知ったのは、車の運転中だったけど、目頭が熱くなり、自然に涙が流れた
同時になぜか、ヒデキが亡くなったことで、自分の子供達に伝えておきたいことがあったから書き残そうと思った
自分の小遣いで最初に買ったレコードは浅田美代子さんの「赤い風船」、その次に買ったのがヒデキの「情熱の嵐」だった
今でも最初に盤に針を落とした瞬間のワクワク感と、レコードを袋に入れる前に吹きかけたレコードスプレーの匂いをハッキリ覚えてる
ヒデキを最初にテレビで見たのは小学5年生の頃だったと思うけど、当時はまだ体を動かしながら歌い踊る歌手が少ない中、ヒデキの歌唱は当時の私の心を強烈に揺さぶった
超カッコよかったし、世の中にはこんな脚の長い人がおるんやなぁとビックリさせられた
友達と集まってはレコードをかけて、口パクで新曲が出るたびに、その振付を真似した
女の子がキャンディーズや、ピンクレディの振り付けを真似するみたいに
当時、大阪の千里セルシーホールてとこで、「プリン&キャッシーのTVテレビ」という番組があって、そのコーナーのひとつに「パクパクコンテスト」ていうのがあった
曲に合わせて口パクで振り付けの似てる具合を競うコーナーだったが、ここから「草川優馬」や、「川崎麻世」というスターも誕生している
「芝田、お前も振り付け上手いから出たらええやん」て当時友達に勧められたけど、そんな勇気は持ち合わせてなかった
もし、あの時応募してたらひょっとしたらまた違った人生があったかもしれない
ヒデキはスタジアムライブの先駆者でもあった
人生で最初にアーティストのライブにチケット買って行ったのが今はなき「大阪球場」の「ブローアップマン・ヒデキ」スタジアムコンサートだった
小学生の男子ばっかり5人で、当時阿倍野のプレイガイドにチケット買いに行って、手にした時の感激はそらもう「ヒデキ、感激‼️」だった
コンサートの前の日、一睡もできなかった
当日は、私たちの座席の周りは高校生、大学生、社会人の綺麗なお姉さんばっかりで、すごくいい匂いに包まれてたのもしっかり覚えてる
前後左右の座席のお姉さんがえらい親切で、ジュースやお菓子をくれたのも覚えてる
コンサートが終わって、「あんたら気つけて帰りや❣️」と声をかけてくれたのも覚えてる
そのお姉さん達もおそらく今や60〜70歳代…
皆さん元気かなぁ?
亡くなった日から私以上に悲しんでるやろなぁ…
そのコンサートの帰りの電車の中の興奮は、
今思えば自分の音楽に対する意識を育てた原点かもしれない
ヒデキは激しいマイクパフォーマンスの第一人者であることは誰しもが認めるところだが、実はバラードも一級品だった。
そしてまた役者としてもワイルドだった
あの頃、欠かさず見たテレビドラマが「寺内貫太郎一家」、これ見てなかったら次の日学校で話題について行けなかった
昭和時代を鮮明に印象づける家族ドラマだった
こんな兄貴がいたらなぁとよく思って見てたなぁ〜
そうかと思えば、忘れもしない映画化された「愛と誠」、今でも内容ハッキリ覚えてる
残念なことに、主役の誠役のヒデキも、ヒロイン役の早乙女愛さんもこの世の人でなくなった
近々、レンタルビデオ店で探して見たいけど、あるかなぁ?
現在、矢沢永吉、永ちゃんの大ファンだけど、実はその永ちゃんを自分に結びつけてくれたのはヒデキだった
キャロルの頃の永ちゃんは当時の友達の兄貴の影響が大なんだが、ソロになった永ちゃんの曲を知ったのは以外にもヒデキの大阪球場でのコンサートだった
そのコンサートでヒデキが歌ったのが、永ちゃんの「恋の列車はリバプール発」て曲
ヒデキが歌ったこの曲が帰りの電車の中で頭の中を何回も駆け巡った
でも、帰って持ってるレコードを探すけど、どこにもその曲は入ってない
しばらくして、大阪球場のコンサートがライブ盤として世に出た
そこに「恋の列車はリバプール発」てあるの見つけた、作曲矢沢永吉て載ってた
実はキャロルが解散して、ソロになった矢沢永吉との出会いはここから始まる
永ちゃんもヒデキも広島出身、何故、ヒデキがこの曲を入れたのかはわからないが、同郷てのがあったのか、ヒデキも永ちゃんが好きだったのかなぁ?
そこからアイドル卒業して、ロックの世界に入っていった記憶がある
よく他人に「いつから矢沢永吉ファンなんですか?」て聞かれるけど、実は以外にもここが本当の原点かもしれない
2003年、ヒデキが最初の脳梗塞に倒れたとニュースが報じられたあと、数ヶ月して復活までのドキュメンタリーがテレビで放送されたのをたまたま見た
そこには歩行器を使って一生懸命に歩行訓練しているヒデキの姿があった
自分が同じ頃、癌を患って入院していた時の頃が思い出されてその放送を見続けた
自分が癌を患ったその当時も、現在もよほどの術後観察が必要でない限り、実は手術しても結構早く病院を退院させられる、オペ経験者ならわかるはず
問題はそこからのリハビリが大変
ヒデキは退院してからの必死のリハビリを経て復活し、ありのままの自分の姿をカメラに撮らせていた
その時の囲みのインタビューで、「家族のために、子供達のために頑張った」て涙ぐむシーンがあった
すごく共感した
自分は当時、大腸癌を患って大腸の3/2を切除する大手術を受け、その後遺症から直ぐには退院できない患者だった
手術前に院長先生から、「大腸は切除しても少し残ってるからそれほど心配ない、ただ、下腹部を相当いじるから神経関係に影響が出る可能性がある」
「先生、それって普通に生活するのが難しくなるかもってことですか?」
恐る恐る聞いたら「うん、特に生殖機能とか足とか下半身に異常をきたす恐れがあるかもしれない」
それを聞いて心の中で、「子供はもう3人いるから生殖機能は仕方ないとしても、足が使えんのは困るなぁ」と相当悩んだ
そして術後、腹をかっさばいて縫合しているから、それがくっつくまでベッドに寝たきりてのもあって、いざベッドから立ってみましょうとなった時にバタッと床に倒れた
自分でもビックリしたけど、最初は寝たきりで足の筋肉が削げて体重を支えられないからだと看護士から説明を受けて「そうなんや」と思ったが、なんか変な痺れが足にあるのが自分にはわかった、ていうか自分の足なんで自分にしかわからない
院長先生が回診に来た時にそれを話すと、めちゃくちゃ厳しい表情で「そうですか、明日から頑張ってリハビリしましょう」との答え
翌日から歩行器を使っての歩行訓練が始まった
若い頃からツッパって生きてきたのに、歩行器にもたれかかった姿が鏡に写し出されたときの
情けないのなんのって、こら子供には見せれんなぁと思い、もっぱら子供達が見舞いに来てくれる夕方までに必死でリハビリした
それだけじゃない、何とか社会復帰したかった
だから、ヒデキのリハビリの時の気持ちがよくわかる。バリバリやってる自分の姿を子供達に見せたかった気持ち、痛いほどわかった
自分は退院まで術後2ヶ月半かかった
その間、退院して行く人を見送るたびに羨ましいなぁ〜と思った
切った腹の縫合も終わり、色んな数値もほぼ正常になったのに、足の麻痺がなかなか元に戻らなかった
正直、半信半疑のうちに退院が決まった
退院しても社会復帰にはほど遠かった
内臓の手術をした人ならわかると思うが、臓器の癒着を防ぐために、歩くことを勧められる
自分の場合はプラス足の麻痺のリハビリ
ヒデキも頑張ったように、退院して毎日、当時の自宅から筥崎宮まで往復1時間のウォーキング、お賽銭入れて早く良くなるように神頼みして帰ってくる毎日の繰り返し
その甲斐もあって約半年で普通に歩けるようになった
ヒデキが復活ドキュメンタリーの中で、復活できた理由として、「家族の支えがあったから」と何度も強調して話してた
死ぬかもしれない病気をして、家族の顔を見れなくなるのは1番辛いと思うのは、経験者は皆口にする
当時の自分にもそれがあった
まだ幼かった子供達が精一杯気を使って色々励ましてくれたのはもちろんだが、自分は今でも後に離婚してしまったが、元嫁さんに感謝してる
「大腸悪性腫瘍」、進行性の大腸癌でこの先の見通しはのぞめない
そう院長先生から聞いて知ってたのは当時元嫁さんだけだった
まだ若く、強気で生きてきた自分にこの宣告は避けようとの元嫁と院長先生との約束が交わされて、自分に伝えられたのは、「良性の腫瘍ができて、大きくなったから切除する」だった
元嫁さんは俺のプラス思考を知ってそう言った方がいいと考えたらしい
だから実際、自分には切除した部位も頼んだけど見せてもらえなかった
もちろん、元嫁さんはそれを見てる
離婚してから元嫁さんに聞いたら、うちの母親にはしばらくして伝えて、同じように箝口令を引いたらしい、今思えば正しい判断だったと思う
本当のところ、俺の体はどうなんやろうなぁとよく本屋で医学書を立ち読みした
当時、元嫁さんは怖かったと思う
いつ再発して倒れるかわからんのを観察してなきゃならないし、子供達の先行きを考えたらそら不安だったやろうなぁ
離婚するまでは本当によく支えてくれたと思うし、感謝の一言につきる
社会復帰してからはそらもう必至に働いた
何とか3人の子供を成人させなきゃと連日連夜働いて、商売も上手くいった
この時、必死に働いたからそれぞれ1番金がかかる時に、何とか3人の子供を育てあげることができた
ただ、忙し過ぎて会社に寝泊まりする事が増えて元嫁さんとの間に大きな溝ができていく
その他の諸事情も重なって離婚
親の勝手で子供たちには本当に辛い思いをさせた、多分、自分のこれまでの人生で1番の汚点だと思ってる
それなのに今のところ3人の子供はそれなりにそれぞれまともに頑張ってる
少なくとも私の若い頃よりかなりまともに頑張ってる
もっと言うと子供たちがいたから私もまともになれたと言っても過言じゃない
まともじゃないか、まぁそれなりに…
ヒデキは離婚してないけど、子供達に対しては同じ気持ちだったろうなぁと思う
一緒懸命に子供達のことを考えて頑張ってたんだと思う
奥さんも大変だったと推察される
そんな命と向き合って頑張っている人がいる反面、なんでやねん?ていう事が最近多い
今まであまりこんな想いを綴ったことないけど、政治家も国会も大学アメフトの問題もいったいどうなってるんやろと思う。
ごく単純で簡単なことをまわりくどくむずかしくしてごまかそうとしてばかり
間違ったら素直に先ずは謝ればいいのに、なぜそんな単純なことができないのか、まったく理解に苦しむ
しかも大人がダメやん、そらあかんやろってことを怒れずにいる
ごまかしてうやむやにしようとしてる
何に対して遠慮や、配慮、今で言うなら忖度かな?そんなのおかしすぎるやろ
最近、私と同じ歳ぐらいの人がテレビのコメンテーターなんかになって意見するようになってるのを見て、私もそんな歳になったんやなぁと思うようになった
若い頃、私にはちゃんと叱ってくれる人がいた
今はなんに対しての遠慮か、ダメなことに怒れない人が多すぎると私は思ってる
叱ることで、自分もちゃんとしなきゃと思う勇気が醸成されるのに、謝れる事で次に進む勇気を醸成できるのに
大人がダメや、情けない
私は嫌われてもちゃんと怒れる大人でいたい
やっぱり間違いは間違いやから
それがわからなくなったら世の中なんでもありになってしまう
ちょっと話が脱線したけど
そんな訳の分からない人が多いなか、ヒデキは最後まで「ありのまま」を貫き通す人生を選択して旅立った
私もいろんなものに媚びずに、つまらないしがらみにとらわれずに「ありのまま」を貫き通して、自分に納得いく道を進みたい
今、特別なプロジェクトを進めるべく、人知れず老体に鞭打ってある事に極秘に取り組んでる
もう何回も投げ出したくなる程キツイんやけど、必ず成し遂げると決意して、今必死にその事に向き合ってる
子供達にも親として、「やっぱり親父やり遂げよった」と語らずも背中で見せたい
今、地域おこし協力隊という仕事をさせてもらっている、そう、その多くが若者達が頑張っている地方創生の世界
彼らの多くは斬新なアイデアや特殊なスキルを持ち合わせたツワモノ達
それを使って頑張って生きている
私にはそんな特別なスキルは何もない
強いて言えば、あらゆる経験しかない
でも、それが良かったと思ってる
ヒデキも最後まで頑張って生きた
私も55歳になったこの時に、自分の生きざまを残せるように
頑張って生きる